永禄八年(1565年)五月、傷を負った明智光秀もまた湯治のため、十日間にわたってこの山代に滞在したと伝え残されています。光秀をはじめとした京の都の人々までもが山代の温泉を知り、まさに全国からいろんな人が集まったということは、全国各地それぞれの文化の香りが、山代の地でさまざまに行き交ったということでもあります。
そんな歴史と文化の積み重ねがあればこそ、「山代の いで湯に遊ぶ 楽しさは たとえて言えば 古九谷の青」と詠んだ与謝野晶子の心をとらえ、「夢もおぼろな山代温泉」そんな言葉を記した泉鏡花の思いを揺らせ、そして、食の世界・陶芸の世界でその名を知られる北大路呂魯山人の遊び心を刺激せずにはおかなかったのです。
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